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諫早の歴史を感じる看板
 
[野口寧斎] [諌早城下] [眼鏡橋] [小野用水]

野口寧斎の経歴と業績
 野口寧斎は慶応三年(一八六七)諌早に生まれた。
 祖父は良陽といい、父は松陽といった。祖父は、諌早領主の御殿医を勤め、父松陽は、好古館教官から明治四年上京して明治新政府に出仕し、後には内閣権少書記官として三条実美や大隈重信の下で活躍した。寧斎は幼くして父から漢学を学び、明治六年(一八七三)東京の第一番小学番町学校に入学し、成績優秀で東京府庁から数回表彰を受けた。
 明治十五年頃、まだ十代の少年であった寧斎は、当時日本漢詩界に名の高かった森春濤の門に入り、その後、その息子森槐南に師事し漢詩を学んだ。以後 明治三十八年(一九〇五)五月十二日に、三十九歳の若さで他界するまで、並々ならぬ覇気と天性の才気をもって、日本漢詩界にその名を上げると共に、新聞や雑誌に優れた文芸評論を発表した。
 寧斎は、漢詩の振興が日本文学の発展につながることを主張し、普及に力を注いだことから、漢詩界中興の祖とも云われた。その名声は全国に広がり、まさにこれからという時にハンセン病を発病したが、病苦に屈せず、漢詩雑誌「百花欄」を発刊、全国から漢詩を募集して佳作一〇〇首を毎月号に掲載した。伊藤博文、副島種臣 山県有朋、乃木希典、渋沢栄一ら多数の知名士が、年若き詩人寧斎を慕い、作品を寄せた。「百花欄」は死の直前まで刊行され、二十九集 に及んだ。
 また、地方における図書館の重要性を説き、青少年の啓発、向上を願い諌早文庫(諌早図書館)を設立、多くの書籍を寄贈した。さらに地元の古賀篤介、執行徳郎らと共に書籍の蒐集に取組み、諌早図書館の礎をなし、その高邁な精神は今日に語り継がれている。
 寧斎の墓は東京青山霊園にあり、墓石には「寧齋野ロ一太郎之墓」と刻されている。
まれにみる詩才とその高風を偲び、また、故郷の文化や教育に対する思いに感謝して、ここに清浄な碑を建立し、永く市民と共に顕彰していきたいと願うものである。
平成二十年十月二十五日
[野口寧斎] [諌早城下] [眼鏡橋] [小野用水]
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